2019年07月10日

弦楽の為の三楽章(トリプティーク)

弦楽の為の三楽章
Triptyque for String Orchestra(1953)
芥川 也寸志 作曲 伊藤 敏明 編曲
Yasushi Akutagawa(1925.7.12 Tokyo〜1989.1.31 Tokyo)/ Rid.Toshiaki Itoh

作者は1925年、小説家芥川龍之介の三男として東京の田端(旧滝野川区)に生まれた。兄は俳優・芥川比呂志。父龍之介が1927年に自殺を遂げた後、遺品にあったSPレコードの中のストラヴィンスキーやR.シュトラウスの音楽に傾倒し、東京高等師範附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)4年在学時には初めて音楽に志した。1943年、東京音楽学校予科作曲部に進み、橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、下総皖一と細川碧に対位法を学んだ。1944年には学徒動員を背景に東京音楽学校校長乗杉嘉壽によって学生を前線に送らぬようにと創設された陸軍戸山学校軍楽隊に転学。士官に諸井三郎が、楽友には團伊玖磨がいたという。終戦後東京音楽学校に戻り、戦後の作曲科講師として赴任した伊福部昭と出会う。伊福部は東京音学校の講師として開口一番学生に向かい「定評のある美しか認めぬ人を私は軽蔑する」と述べたと後年の黛は述懐している。伊福部はそれまでの橋本ら理論中心のアカデミックな音楽に対し近代音楽、特にストラヴィンスキーの作品を紹介し生徒たちの中に熱烈な信者を生んだが、芥川もその一人であり、当時日光に住んでいた伊福部を度々訪ね薫陶を受けている。1947年東京音楽学校本科を首席で卒業。本科卒業作品『交響管絃楽のための前奏曲』は伊福部の影響が極めて濃厚な作品である。また伊福部が初めて音楽を担当した映画『銀嶺の果て』(後年旋律が「空の大怪獣ラドン」で引用)ではピアノ演奏を担当するなど、その後も伊福部に師事し、敬慕の念を持ち続けたが、日本放送協会設立25周年におけるオーケストラ作品の公募に応募した「交響管弦楽の為の音楽」が特賞を受賞し、それを皮切りに一躍楽壇に躍り出る事となった(なお芥川は自身の晩年にすら伊福部の勲三等瑞宝章受賞祝賀にあたって弟子9名が共作した「伊福部昭のモチーフによる讃」において第一曲ゴジラの主題によるバラードを献呈している)。
 芥川の音楽は当時同じく傾倒していたプロコフィエフやショスタコーヴィチの音楽(当時上田仁/東響が立て続けに作品を日本初演していた)と、伊福部譲りのオスティナートをスタイルの根幹におき、活気に満ち、原初的な興奮をもたらすものとして人気を博して行った。1953年には同志である黛敏郎、團伊玖磨と共に「三人の会」を結成、作曲者が主催してオーケストラ作品を主体とする自作を発表するなど極めて意欲的な活動を展開した。また芥川はこの頃より大衆音楽運動にも興味を持ち、「労音(勤労者音楽協議会)」や「うたごえ運動」の活動の中心となっていた合唱団「白樺」を指揮するなどアマチュア音楽家の指導にも注力していく。1954年にはショスタコーヴィチに面会する為、当時国交のなかったソ連にウィーン、ハンガリー周りで密入国し、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、カバレフスキー等に面会し作品に批評を請うた。なお「交響三章」は当時ソ連で出版がかない、その印税で帰国することができたという逸話も残っている。驚くべきはフルシチョフ時代、スターリン批判以前のソ連で芥川がスパイではなく音楽家として迎えいれられた事と言えよう。
 そして帰国後には労音設立二周年を記念して、当時爆発的な人気を呼んでいたショスタコーヴィチのオラトリオ「森の歌」を、労音や白樺など一千人もの合唱団を率いて日本初演を果たした。この取り組みは東京両国にあった国際スタジアム(回向院境内にあった初代国技館)で4回の公演で4万人を動員したという記録が残っている。そして本作品もその演奏会で日本初演を迎えている。その後労音アンサンブルを母体とするアマチュア楽団「新交響楽団」を超一流のアマオケに育てあげるなどの音楽教育にも情熱を注いだ。
 芥川の音楽は1960年代には躍動性から遠ざかり静謐で寡黙な音楽へと移行していった。当時は映画音楽や日本作曲家組合(後の日本作曲家協議会)委員就任や、日本現代音楽協会「現代の音楽展」の企画運営に携わったり、ラジオ・テレビ番組の司会、映画音楽の担当などに活躍。しかし1967年・69年には中期の代表作「オスティナータ・シンフォニカ」と「チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート」が日本フィル(渡邉暁雄指揮)と東京交響楽団(秋山和慶指揮)で次々と初演され、オスティナートの音楽に回帰した。その後も自作を発表するかたわら、TV番組監修、映画音楽作曲や寄稿、オペラ上演課など多方面に活動。1981年には1000人もの音楽家が参加した「反核 日本の音楽家たち」設立の中心人物として活躍した。この活動はクラシック領域に止まらずジャズやポピュラーの領域にも拡大し一大ムーブメントとなり、学生マンドリンの世界にも大きな影響を及ぼした。1986年にはサントリーホール開館記念作「オルガンとオーケストラの為の響」が初演され、サントリー財団から更に委嘱を受け「古事記によるオラトリオ」を構想したが、88年病に倒れ病床で「日扇聖人奉讃歌〈いのち〉」に着手するも89年初頭肺ガンの為惜しまれつつ死去。
 本作は1953年、NHK交響楽団の常任指揮者であったクルト・ヴェスの依頼を受け作曲した弦楽五部合奏曲で、曲名は愛聴作であったポーランドのアレクサンドル・タンスマンの「トリプティーク」から引用したもので、「急-緩-急」の構成を同じくし曲調も似た雰囲気を醸しだしている。本作は芥川がソ連密航の際に持参して、モスクワで演奏、後年ソ連の国立出版局からも出版された。初演は1953年12月4日クルト・ヴェス指揮ニューヨークPO。なおタンスマンはポーランドの作曲家だがラヴェルやストラヴィンスキーと親交があり、伊福部が「日本狂詩曲」で受賞したチェレプニン賞の審査員でもある。本作は1947年に作曲された弦楽四重奏曲(後に破棄)から第2楽章をトリプティークの3楽章へ、第2楽章をトリプティークの第3楽章に改作転用している。
 トリプティークとは元々はルネッサンス期の教会の三連祭壇画を指しtri(- 3つの)+ptychē(折り重ねる)を意味する3つの部分に分けられた絵画の事である。多くは蝶番で折り畳む事が出来る板絵で中央の作品が大きく、それに蓋をするように左右の作品が折り畳める三面鏡のようになっている。この三枚の作品は関連性のあるもので、「フランダースの犬」でも有名なP.P.ルーベンスの「キリスト昇華」「キリスト磔刑」「キリスト降架」はその中でも著名なものである。
 第1楽章は全合奏のユニゾンでショスタコーヴィチやプロコフィエフの影響が顕著なオスティナート。冒頭5小節の印象的な主題をヴァイオリンソロや副主題、中間部を挟みながら性格を変えずに最終的には冒頭の主題を4オクターブに拡大して駆け抜ける。第2楽章は作者の娘の為に書かれた5/4拍子の「子守歌」。全パートに弱音器の指定があり、両端楽章に対して非常に静謐で禁欲的な響きに満ちている。途中楽器を手で叩く「Knock the body」の特殊奏法が用いられていたり、伴奏の和音をレガートとトレモロのユニゾンにしたり、パートを分けて上下交互に二声部を奏させるなど、細かい管弦楽法も特徴的である。第3楽章は作者曰く「御神楽から想を得た」という祭り囃子のような賑やかな楽章。密集した和音から次第に音域を拡げるつつ加速していく細かなテクニックが印象的。コル・レーニョも用いられ響きにアクセントをつけ、途中で短いアダージョを挟み、冒頭の音楽に戻る。最後はアダージョの主題を強奏し、冒頭主題のユニゾンで締める。
なお本編曲は早稲田大学出身の伊藤敏明氏によるもので、在学中に他大学の有志等で活動していたアンサンブル・プロメテの為に編曲したもので、原曲に至って忠実な編曲が施されており、原曲の特殊奏法に対するマンドリン演奏でのアドバイスなども付随している大変貴重なものである。
解説:横澤恒
参考文献:「弦楽の為の三楽章 」( 音楽之友社: 解説/ 長木誠司)、「伊福部昭の宇宙」( 音楽之友社/ 相良侑亮編)、新交響楽団第152 回/ 第204 回定期演奏会パンフレット、「芥川也寸志―その芸術と行動」( 東京新聞出版局)、「私の音楽談義」( ちくま文庫/ 芥川也寸志著)
posted by コンコルディア at 12:45| Comment(0) | 47th定演曲目解説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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