2019年07月10日

第47回定期演奏会

○選曲について
http://concordiablog.seesaa.net/article/467819633.html
○1900年代初頭の作曲コンクールについて
http://concordiablog.seesaa.net/article/467819692.html


・1905年 Camillo Sivori音楽院提唱によるリグリア教師協会(Unione Magistrale Ligure)主催第一回国際作曲コンクール入賞作品(掲載Arte Mandolinistica)
A部門 マンドリン四重奏のための交響曲の部)
第1位
○ウーゴ・ボッタキアリ/交響曲「ジェノヴァへ捧ぐ」(1905)
http://concordiablog.seesaa.net/article/467821574.html
第2位
○ジュセッペ・マネンテ/交響曲「マンドリン芸術」(1905)
http://concordiablog.seesaa.net/article/467820839.html


・1906年Il Plettro誌主催第一回国際作曲コンクール入賞作品(掲載Il Plettro)
第一項 マンドリン讃歌の部
第1位大金牌
○アメデオ・アマデイ/マンドリン讃歌「プレクトラム」(1906)
http://concordiablog.seesaa.net/article/467820089.html
第2位銀牌
○アルリーゴ・カッペルレッティ/マンドリン讃歌「フローラ」(1906/1926)
http://concordiablog.seesaa.net/article/467821297.html
第二項「ボレロ、前奏曲、間奏曲、セレナータ」の部
文部省芸術賞
○アンリ・ゴアール/「鐘の祭」(1906)
http://concordiablog.seesaa.net/article/467821520.html


・現代邦人作品
○芥川也寸志/弦楽の為三楽章(トリプティーク) (1953)
http://concordiablog.seesaa.net/article/467821123.html
○歸山 榮治/マンドリン・オーケストラの為の「劫」(1974/2017)
http://concordiablog.seesaa.net/article/467821167.html

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交響曲「ジェノヴァへ捧ぐ」

交響曲「ジェノヴァへ捧ぐ」
Alla Città di Genova, Sinfonia in 4 tempi(1905)
ウーゴ・ボッタキアリ 作曲 石村隆行 校訂
Ugo Bottacchiari( 1879.3.1Castelraimondo〜1944.3.17 Como)/ Revis. Takayuki Ishimura

 作曲者はマチェラータのカステルライモンドに生まれ、同地の工業高校で数学と測地法を学んだが馴染まず、幼少より好んでいた音楽に傾倒していった。そしてピエトロ・マスカーニ(歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」で著名)の指導下にあるペザロのロッシーニ音学院に入学し、厳格な教育を受けた。師マスカーニからは直々に和声とフーガを学んだという。1899年にはまだ学生であったが、歌劇「影」を作曲し、マチェラータのラウロ・ロッシ劇場で上演、成功を収めオペラ作曲家としてのスタートを切った。卒業後はルッカの吹奏楽団の指揮者や、バチーニ音学院で教鞭をとるなどしつつ、管弦楽曲、歌劇、室内楽曲、声楽曲、マンドリン合奏曲など数多くの傑作を表し、諸所の作曲コンクールで入賞した。
 マンドリン合奏のための作品としては本曲の他、1910年のIl Plettroの第3回作曲コンクールで第1位を受賞したロマン的幻想曲「誓い」や「交響的前奏曲」、1941年にシエナで開催されたコンクールで第1位を受賞した瞑想曲「夢の魅惑」などを残し、いずれも斯界の至宝的存在となっている。ボロニアで発行されていたマンドリン誌「Il Concerto」の主宰者になり、1925年にはA. Capellettiのあとを継いで、コモの”Circolo Mandolinistico Flora”の指揮者に就任するなど、作曲以外の面でのマンドリン音楽への貢献も大きいものがある。
 4楽章の交響曲「ジェノヴァへ捧ぐ」は1905年告示のU.M.L.の作曲コンクールのA部門で第1位の文部省大銀牌を受賞した。題名はコンクールの開催地であるジェノヴァ市に因んだものと考えられる。本曲の存在は早くから知られていたが、第4楽章を除き未出版だったこともあり、長年行方がわからなかった。石村隆行氏の熱心な調査により、本曲の楽譜がイタリアで発見されて本邦にもたらされた。石村隆行氏によって補筆された楽譜は1994年にALBUM PHILODOLINOに掲載されたが、本日用いる楽譜は低音部の補筆に改訂が加えられた版である。
 楽曲は下記の4つの楽章からなる。
I. Largo Patetico, ト長調, 4/4
 やや自由なソナタ形式である。第1主題と第2主題が共通の部分動機を持ち楽想が対比的でなく、再現部で第2主題が再現されずに形式的な再現で置き換えられていることが特徴的で、これらが本楽章がソナタ形式であることをわかりづらくしている。第2主題はドリア旋法のモードによって第1主題と対比されるとともに、低音に全体共通のテーマとなる順次下降進行を有している。
II. Allegro non troppo, イ短調, 2/4
 コーダを伴う三部形式による。模倣を多く用いた対位法的な楽章であり、古典の交響曲で言えばスケルツォに相当する。第2楽章のみバスの順次下降進行を明示的には持たないが、主題が下降順次進行を含むことと、第1楽章の最後に第2楽章で多く用いられる「相互の模倣」を用い、第2楽章と第3楽章の主題をいずれも8分音符の弱起を有するものとすることなどで他の楽章との関連を持たせている。
III. Andantino mosso, ト長調, 2/4
 自由なロンド形式による緩徐楽章である。主題、第1エピソード、主題、第2エピソード、主題の展開、下属調による主題の再現、コーダからなる。楽章の主調がト長調であるにも関わらず主題の最後の再現が下属調のハ長調であるのは、曲全体のト長調→ハ長調の流れを暗示するものである。主題とエピソードを全て8分音符の弱起を有するものとして統一感が作られている。
IV. Allegro con brio, ハ長調, 2/4
 ロンド形式によるフィナーレで、第2エピソードの予告となる序奏、主題、第1エピソード、主題、第2エピソード、主題、コーダからなる。主題は模倣を多く用いた対位法的なもので、各エピソードでは対旋律として主題の動機が現れる。第2エピソードでは低音に順次下降進行が現れる。スコアにはこの楽章に≪Scherzo≫と書かれている。
 本曲は交響曲らしく、ソナタ形式、スケルツォ風楽章、緩徐楽章、ロンドフィナーレに相当する4つの楽章でソナタ構造を形成している。開始楽章と終楽章の調が異なることは(同時代のマンドリン曲にはよく見られる)特徴的な点である。また特徴的なこととして、第1楽章のテンポは古典のソナタと異なり緩徐である。この点はコンクールの審査においても俎上に挙がったようであるが、ベートーヴェンの幻想曲風ピアノソナタを古典作品の例に挙げて問題なきものとされたらしい。この第1楽章は教会旋法を用いて、楽想ではなくモードによって主題の特徴づけがなされる手法を用いており、後年の傑作である「夢の魅惑」につながるものである。第1楽章と第3楽章はボッタキアリらしいロマンティックで緩徐な楽章である。これらには同時期の歌劇「祖国のために」(セヴェロ・トレッリとして出版)と共通の素材が用いられている。一方第2楽章と第3楽章は音楽語法としては古典的で、比較的シンプルな対位法による表現が中心となっており、作者の他の作品とは趣が異なる。第4楽章は後年単独出版されており、≪Scherzo≫と記されている。第2楽章を除く全ての楽章にバスの順次下降進行が共通テーマとして現れ、全体を統一している。

解説:清田和明
参考文献:オザキ企画「Ugo Bottacchiari 集(1)」松本譲 編、アルバムフィロドリーノ第8 巻 石村隆行 編
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鐘の祭

鐘の祭
Fête Carillonnée( Scampanio festoso)(1906)
アンリ・ゴアール 作曲 アルベルト・ボッチ 補筆
Henri Gouard( Ca.1880〜) / Elab. Alberto Bocci


 作者はフランスの作曲家で、フランスのオセールのサン・ピエール教会のオルガニストであった。パリの国立音楽院でDuprato、Lavignac、Marty、Pugnoらに学び、1896年に対位法とフーガを修め、1900年には作曲家協会でプルミエ・プリを受けた。作者自身はマンドリンを演奏しなかったが、マンドリンのための作品は本曲の他、U.M.L.のコンクールで第1位を受賞した三重奏のための子守歌セレナーデが存在している。
 本曲は1906年のIl Plettroの第1回国際作曲コンクールの第2項の「ボレロ、前奏曲、間奏曲、セレナータ」の部門において文部省の芸術賞を受賞している。同時の受賞作として、A.Amadeiの「イ調のミヌエット」(大銀牌)、E.Redeghieriの「スペイン風幻想曲」(銀牌)、G.Mantenteの「秋の夕暮れ」(銅牌)、U.De Martinoの「月ありき」(銅牌)がある。コンクールの当初の告示では第1項(マンドリン讃歌)は大金牌、大銀牌、賞状、それ以外については金牌、銀牌、銅牌、賞状が賞品であるとされていたが、結果的にはこれらは入れ替わったようである。文部省芸術賞がメダルの賞よりも上であるのはイメージしづらいが、第2回のコンクール告示のカテゴリーCは1位が文部省芸術賞、第2位が銀牌とされているため、第1回コンクールでも文部省芸術賞は第1位と解するべきものと考えられる。なお、コンクールの第2項の締め切りは1906年8月末であった。
 本曲はIl Plettroの1908年3月に掲載された他、1931年にも再掲載された。Il Plettroの初期の号には本曲が推薦曲として度々紹介されていた。本日演奏する楽譜は、後年にA.Bocci氏が補筆したものである。原編成の2マンドリン、マンドラ、ギターに加えてマンドロンチェロとベースが追加されている他、第2マンドリンは2つに分割されてかなり音が足されている。
 題名のFête Carillonnéeとはローマカトリック教会の大規模な祭典で、その最後にはカリヨン(鐘)が鳴らされる。題名に付されているイタリア語の「Scampanio festoso」は、祭りの(陽気な)鐘が鳴り続ける音という意味である。
 曲は三部形式による。イ長調の主部は鐘を模したオスティナートが鳴り響く音楽であり、最初にマンドラで提示されたオスティナート
上に旋律が移ろう。ホ長調の中間部はQuasi misticoと記されており、緩やかで幻想的な音楽である。


解説:清田和明
参考文献:Maîtres contemporains de l'orgue( オルガン作品のアンソロジー) のバイオグラフィー、Il Plettro, Anno III, No.5 (1908)、同志社大学マンドリンクラブ第132 回パンフレット、オザキ譜庫マンドリン楽譜目録、中村泰彦作成 Il Plettro 出版目録、ウィクショナリー フランス語版 https://fr.wiktionary.org/wiki/fête_carillonnée
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マンドリン讃歌「フローラ」

マンドリン讃歌「フローラ」
Inno Mandolinistico “Flora” op.107(1906/1926)
アルリーゴ・カッペルレッティ 作曲
Arrigo Cappelletti(1877.11.16 Como〜1946.10.16 Como)


 作者はイタリアのコモに生まれ、同地に逝いた斯界の至宝的作曲家の一人。同地の音学院でポッツォーロ教授よりピアノ、オルガン、対位法といった基礎を学び、ボローニャのフィラルモニカではピアノと作曲法、吹奏楽を、ミラノのヴェルディ音楽院ではオルガン、合唱といった課程で次々とディプロマを獲得した。経歴からも推測できるように多様なジャンルに作品があるが、特にオルガン作品を得意とし、コモのフェデーレ教会のオルガニストにもなり、各地のオルガン曲コンクールでも度々入賞したという。また宗教音楽のジャンルにも優れた作品を残しており、殊に対位法を駆使したその作曲技法には自信を持っていたと思われる。また、生地コモの山々をこよなく愛し、かなり距離のあるミラノのスカラ座まで歩いて通ったという。斯界では同地の伝統あるマンドリン合奏団である”CircoloMandolinistico Flora(” 現“Orchestra Plettro Flora”)の指揮者として活躍し、U.ボッタキアリも同団のタクトをとった事から親交が厚かったという。(この伝統ある合奏団はそののち、かのU.ゼッピに引き継がれ繁栄した)
 本曲は1906年のIl Plettroの第1回作曲コンクールの「マンドリン讃歌」の部門に応募され、第2位の銀牌を受賞した(同じ銀牌の受賞作として、E.Redeghieriの「センピオーネのトンネル」がある)。曲名の”Flora”はCircolo Mandolinistico Floraから取られたものと考えられる。本曲の楽譜はその後1907年11月にIl Plettroから出版されており、1927年5月にはCircolo Mandolinistico Floraの35周年を記念して再出版されている。その際にはMandoloncelloおよびMandolone(またはC. Basso)については問い合わせるようにとの記載があり、出版されたスコアは4部合奏であるがより大規模な編成の楽譜が存在したことが示唆されている。
 今回用いる楽譜は1926年と記載があるものである。1974年の岡村光玉氏の調査ではCircolo Mandolinistico Floraは戦災で楽譜を焼失し古いものは残っていないということであったが、2010年に出版された本”Arrigo Cappellett i / musicista comasco1877-1946” にはCircolo Mandolinistico Flora保有の楽譜リストが記載されていた。その中には「マンドリンオーケストラのための組曲」や「カンツォーネ・セレナータ」といった本邦で知られていない曲が含まれており、石村隆行氏は在イタリアのマンドリニスト西山みき氏を通じてそれらの楽譜の複写を譲り受けた。それらに伴い、本曲の1926年版も本邦にもたらされた(この楽譜の表紙は前述の本に写真が掲載されている)。この1926年版は非常に大編成で書かれており、Quartino、Mandolini 1 AB、Mandolini 2 AB、Mandole Contranti、Mandole Tenori AB、Mandoloncelli、Chitarre、Contrabassoからなっている(Timpaniについては石村氏の筆致で「di E. Giudici」との記載があり、Eugenio Giudiciの筆によるものを記入したものらしい)。
 本曲は1906年3月に告示されたコンクールへの応募作品として作曲された(応募期限は6月)が、ピアノ版であるInno Marcia op.107は楽譜の末尾に9/3-906(1906年3月9日の意と考えられる)との記載があり、ピアノ版が先に作曲されてそれを編曲する形で本曲が作曲されたものと考えられている。Inno Marciaから本曲を作成するにあたり、一部音が省略されている部分もある一方で、Marziale部分の対旋律のように追加された部分もある。1926年版は4部合奏版から単純にパートを足したものではなく、全体的にオーケストレーションが見直されている。
 曲はA-B-A’-C-A-Codaの小ロンド形式である。主題Aはさらにa-b-c-dの4つの部分からなるが、中間の再現A’ではb-dが奏され、低音に8分音符の動きが加えられて一層力強く歌い上げられる。主題自体が小エピソードとなるcを内包するため、第1エピソードBの扱いは軽く感じられるが、コーダは第1エピソードのモチーフを用いることで充足している。Marziale(行進曲風に)と記された第2エピソードCは下属調のハ長調で書かれており、安定した中間部を形成している。このエピソードは作者のお気に入りの素材であったようで、「マンドリンオーケストラのための組曲」の終楽章にも用いられている。随所に作者の得意とする対位法が用いられ、快活な中にもシリアスさを感じさせる音楽となっている。

解説:清田和明
参考文献:南谷博一「マンドリン辞典」、同志社大学マンドリンクラブ第132 回パンフレット、Arrigo Cappelletti, musicista comasco 1877-1946,NODO libri 刊、中野二郎著「いる・ぷれっとろ」http://vinaccia.jp/nj-collect/
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マンドリン・オーケストラの為の「劫」(1974/2017)

マンドリン・オーケストラの為の「劫」(1974/2017)
歸山 榮治 作曲
Eiji Kaeriyama(1943.5.25 Ono〜)

 作者は1943年福井県大野市に生まれ、62年名古屋大学文学部入部と同時にギターマンドリンクラブに入部、一年後指揮者となった。
 その後中田直宏氏に作曲を学び、クラブ内外で編曲を含め多くの作品を発表してきた。またチルコロ・マンドリニスティコ・ナゴヤをはじめとして、大学・社会人のマンドリン団体を数多く指導してきた経験を持ち、現在日本マンドリン連盟中部支部理事。作品は多岐に渡り、マンドリン合奏曲以外にも吹奏楽曲、邦楽曲、合唱曲、劇音楽、舞踊音楽など多くの作曲、編曲活動に携わっている。1981年名古屋市芸術奨励賞授賞。1984年及び1988年、名古屋マンドリン合奏団と共に団長兼指揮者としてソ連(当時)公演。同合奏団の1992年の中国公演と1996年のオーストラリア公演に音楽監督兼指揮者として参加。1997-2004年、マンドリン合奏トレーニングのためのEnsemble ESCHUEを主宰指導。2004年に「カエリヤマファイナルコンサート」を開催。マンドリン合奏以外ではギター合奏に継続的な作品が書き下ろされており、現在10数曲を数えている。
 作品は初期の挑戦的な作品や西洋音楽の模倣などを皮切りに、1970年代中期には独特な和声感と撥弦楽器の構造的特性やマンドリン属が持つ金属打楽器的な要素を活かし、更にそれらを集団体と捉える独自の音響設計や作風を確立した。それらは作品の根底に常に=現代社会の人間疎外の憂鬱の中で『人間の持つ宿命的な寂しさ』をしっかり見つめ、いかにして人間らしく生き抜くか=という音楽と人生の命題を宿し、作品に厳しさと温かさを与えて、従来の西洋音楽の枠内の作品を演奏していた若者たちの中のアヴァンギャルドな音楽を指向する者達を中心に熱烈に支持された。80年代初頭の実験的ないくつかの作品を経て82年には「反核 日本の音楽家たち」に参画、Ouverture Historique No.4にはその旨を記している。80年代中期以降は侘(わび)寂(さび)に通ずる静謐の中に心理的描写を埋め込むような諦観とも言える美しさが独自の精神世界を産み、作風はギターを中心に据えるオーケストレーションなどが際立ってきた。特にライフワークのように書き綴られてきたOuverture Historiqueの世界は氏の円熟に併せ、またその折々の時代を映して作品群のマイルストーンとなってきた。最新作のNo.7においては梵鐘の音を模した響きから始まり、明確な調性感を持って未来を切り拓く者の為の音楽を改めて指し示した。また直近作「Memories of 60(Sixty)」や「オタケとコタケ」においては回想的な表現や自然への回帰などますます円熟の度合いを増している。
 本曲は氏の作品の中でもっとも特異な経過を辿り、非常に多くの経過的異稿が存在している。初版は1974年に金城学院大学の委嘱により作曲されたもので、氏の作品の中でも最も複雑かつ深遠と言える難解な作品である。その後1979年改作に際して、全面的な再構築と和声の整理が行われ、初版の後半約1/3を削除し、改作では後半となっている中間部分の素材を残し書き改める程の荒療治を施している。この改作版は若干の表情記号修正と体裁を整えグループレムより出版、一流の刀匠の作品の如く均整のとれた研ぎ澄まされた美しさでその後の演奏のスタンダードとなった。1981年には桑原康雄氏の依頼でギターを除くアンサンブル版に改変され、その際に後半部分を中心に繰返しや転調による小節の追加等増補が行われた。1984年名古屋大学GMCの指揮者であった池谷裕之氏はこのアンサンブル版をオーケストラ版に戻す再改訂を行い、その後1991年酒井国作氏が同改訂のマンドラパートを分割しマンドラコントラルトを加え、オーケストレーションにも手を加えた平成版を作成、その後も同じく酒井氏による21世紀版などが編まれてきた。
 今回は歸山氏自身が2017年に1979年の改作版にマンドローネパートを追加し、微修正を加えたものを浄書し、おそらく確定版となるであろう稿を作成されたためそれを用いて演奏する。79年版は頂点となる部分が絞り込まれ集中度の高い鋭角的なものとなっている為、同版を踏襲した2017年版もマンドローネを単なる低音の増強ではなく深みのある単音として使用する等非常に硬質で引き締まった仕上がりとなっている。
 この曲を紹介するのには、以下の名古屋大GMC 第31代指揮者である瀧博氏の示唆に富んだ文章を紹介してみよう。
『ヨーロッパの芸術は−(中略)−常に間隙を埋めるためにあった。彼らにとっては空白とは不安なのである。西洋史とは、思想の交替と民俗交替の仮借ない戦争の歴史であって、秩序というものは常に破壊されうる対象であり、(中略)、これらに対する不安を排除するためにも間隙は埋められねばならない。逆に日本人は、空白を大事にする。(中略)何百年来、変わらず移り行く自然、人も変わらない。
この共通感情が焦点を一点に絞り、その裏に多くの暗示を含ませる事を可能にした。(中略)日本の音楽は、空白の中の一点にあり、言わば「間」の中に「音」がある訳だ。西洋の音楽は音の中の休止としての間がある。この根本的な違いを無視して「日本的」云々を論ずるのは無理があるとしか言いようがない。帰山氏の「日本的」な音楽作品には、部分的ではあるがこの種の「音」が取り入れられている箇所が随所に出てくる。』
 「劫」は梵語(漢字文化圏でいうサンスクリット語)のkalpa(カルパ)を「劫波」と漢語の音で写したのを略したものと言われている。意味は、きわめて長い時間、古代インドにおける時間の単位のうち「最長のもの」とされ、その比喩としては「7km3の箱に芥子の実を詰め、百年に一度、一粒取り出していき、すべて取り出してもまだ余りある時間」などと表現されていて、もはや想像すら出来ない程無限の時間軸を表している。それで納得出来る御仁はよいが、理数系の方などはそうは言っても実際はとなるので突き詰めてみよう。教派部派により、その長さの定義は異なっており、こうした課題を理解して行くためには本来古代インド仏教とは何かに遡るわけだが、ここではそこまでの頁数を割く事が出来ない。よってポイントをいくつか提示する。古代インド仏教はインド哲学の一部分を成すが、そのルーツは「ヴェーダ」と呼ばれるインド最古の文献で、「知識」という意味を有する書に行き着く。この「ヴェーダ」の中に「ウパニシャッド」という奥義書があり、ここで語られる究極の悟りが「梵我一如」と呼ばれる宇宙を支配する原理=個人を支配する原理でその両者が同一であるという教えである。その真理を知る事で全ての苦悩から開放され解脱に達することができるとされており、すなわち輪廻の業が終わることを意味するのだそうだがこの修行から解脱に至るまでの時間の単位として「劫」が使われている。このヴェーダ信仰と階級社会にあったバラモン教を受け継いでインド土着の宗教となったのがヒンドゥー教である。いわゆるカースト社会の輪廻から解脱する事を求めたものだが、このヒンドゥー教における「劫」は1劫(カルパ)=43億2000万年となっている。(インド仏教における神々の1年=人間の360年、神々の4000年がクリタ・ユガ、3000年がトレーター・ユガ、2000年がドヴァーパラ・ユガ、1000年がカリ・ユガであり、それぞれのユガはその1/10の薄明と薄暮-400年・300年・200年・100百年-総計2,000年を伴っているので計12,000年からなる期間がマハーユガと呼ばれている。すなわち、これを人間の時間に直すと432万年ということになる。更に、このマハーユガが1000集まったもの(43億2000万年)がブラフマー神の昼であり、これが一カルパ(劫)と呼ばれる。)
 曲は単一の楽章であるが『間』の音楽である前半部と一転して轟然としたリズムのめくるめく後半部に分けられる。静謐で予兆に満ちた響きの中からまずギターに本曲の『核』となる五・七・五のリズムが現れる。その後音楽はセロの印象的な増四度のリズムによって断ち切られる。前半部分はこの2つの音形に沿って『核』となる半音階的な主題が導き出され、執拗に繰り返される。一方、後半部はこの『核』となる主題が五・七・五・七・七の激烈なリズムにのって登場するが、混沌とした中には作者の初期作に見られるような声部間の音形の受渡しのスケールも現れる。オスティナートがクライマックスに向けて果てしなく高揚していくが行き着いた先では轟然とした響きの果てに、再び静寂と空間的安定を取り戻して、薄明と薄暮の中、無限の空間に収斂していく。殊に終結部分は後年の歸山作品に見られる一種独特の諦観にも似た、『深遠=永劫』にを先取りした響きに触れる瞬間である。
 本曲は作者の作品の中で、最も『マンドリン・オーケストラ』という発音形態と『日本』的な音楽観にこだわった力作で、本曲を氏の最高傑作と評する人も少なくない。学生のみならず、社会人団体においても本稿がこれまで演奏機会を得られなかったように、近年の選曲傾向の中ではこうした作品が顧みられる事は今後益々減少していくのかも知れないが、私たちは「信念とこだわり」をもち「生きることを問いかける」作曲家の魂を追求していきたい。

解説:横澤恒
参考文献:
『帰山栄治作品解説集』 https://www.bass-world.net/kaeriyama/
『ときの地域史』〜インドにおける「とき」 --- 劫・輪廻・業 ---(佐藤次高・福井憲彦編/ 山川出版社)
NHK高校講座「古代インド〜仏教とアショーカ王〜」
Hindu mythology, Vedic and Purānic (3rd ed.). (Wilkins, William Joseph , Tracker,Spink & co)
『ヒンドゥー教−インドの聖と俗』(森本達雄/中公新書)
インド哲学のおすすめ本4選!インド哲学や釈迦についても解説http://biz.trans-suite.jp/8011
仏教WEB入門講座 https://true-buddhism.com/teachings/awakening/ 世界大百科事典(平凡社)
ブリタニカ国際大百科事典
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弦楽の為の三楽章(トリプティーク)

弦楽の為の三楽章
Triptyque for String Orchestra(1953)
芥川 也寸志 作曲 伊藤 敏明 編曲
Yasushi Akutagawa(1925.7.12 Tokyo〜1989.1.31 Tokyo)/ Rid.Toshiaki Itoh

作者は1925年、小説家芥川龍之介の三男として東京の田端(旧滝野川区)に生まれた。兄は俳優・芥川比呂志。父龍之介が1927年に自殺を遂げた後、遺品にあったSPレコードの中のストラヴィンスキーやR.シュトラウスの音楽に傾倒し、東京高等師範附属中学校(現在の筑波大学附属中学校・高等学校)4年在学時には初めて音楽に志した。1943年、東京音楽学校予科作曲部に進み、橋本國彦に近代和声学と管弦楽法、下総皖一と細川碧に対位法を学んだ。1944年には学徒動員を背景に東京音楽学校校長乗杉嘉壽によって学生を前線に送らぬようにと創設された陸軍戸山学校軍楽隊に転学。士官に諸井三郎が、楽友には團伊玖磨がいたという。終戦後東京音楽学校に戻り、戦後の作曲科講師として赴任した伊福部昭と出会う。伊福部は東京音学校の講師として開口一番学生に向かい「定評のある美しか認めぬ人を私は軽蔑する」と述べたと後年の黛は述懐している。伊福部はそれまでの橋本ら理論中心のアカデミックな音楽に対し近代音楽、特にストラヴィンスキーの作品を紹介し生徒たちの中に熱烈な信者を生んだが、芥川もその一人であり、当時日光に住んでいた伊福部を度々訪ね薫陶を受けている。1947年東京音楽学校本科を首席で卒業。本科卒業作品『交響管絃楽のための前奏曲』は伊福部の影響が極めて濃厚な作品である。また伊福部が初めて音楽を担当した映画『銀嶺の果て』(後年旋律が「空の大怪獣ラドン」で引用)ではピアノ演奏を担当するなど、その後も伊福部に師事し、敬慕の念を持ち続けたが、日本放送協会設立25周年におけるオーケストラ作品の公募に応募した「交響管弦楽の為の音楽」が特賞を受賞し、それを皮切りに一躍楽壇に躍り出る事となった(なお芥川は自身の晩年にすら伊福部の勲三等瑞宝章受賞祝賀にあたって弟子9名が共作した「伊福部昭のモチーフによる讃」において第一曲ゴジラの主題によるバラードを献呈している)。
 芥川の音楽は当時同じく傾倒していたプロコフィエフやショスタコーヴィチの音楽(当時上田仁/東響が立て続けに作品を日本初演していた)と、伊福部譲りのオスティナートをスタイルの根幹におき、活気に満ち、原初的な興奮をもたらすものとして人気を博して行った。1953年には同志である黛敏郎、團伊玖磨と共に「三人の会」を結成、作曲者が主催してオーケストラ作品を主体とする自作を発表するなど極めて意欲的な活動を展開した。また芥川はこの頃より大衆音楽運動にも興味を持ち、「労音(勤労者音楽協議会)」や「うたごえ運動」の活動の中心となっていた合唱団「白樺」を指揮するなどアマチュア音楽家の指導にも注力していく。1954年にはショスタコーヴィチに面会する為、当時国交のなかったソ連にウィーン、ハンガリー周りで密入国し、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン、カバレフスキー等に面会し作品に批評を請うた。なお「交響三章」は当時ソ連で出版がかない、その印税で帰国することができたという逸話も残っている。驚くべきはフルシチョフ時代、スターリン批判以前のソ連で芥川がスパイではなく音楽家として迎えいれられた事と言えよう。
 そして帰国後には労音設立二周年を記念して、当時爆発的な人気を呼んでいたショスタコーヴィチのオラトリオ「森の歌」を、労音や白樺など一千人もの合唱団を率いて日本初演を果たした。この取り組みは東京両国にあった国際スタジアム(回向院境内にあった初代国技館)で4回の公演で4万人を動員したという記録が残っている。そして本作品もその演奏会で日本初演を迎えている。その後労音アンサンブルを母体とするアマチュア楽団「新交響楽団」を超一流のアマオケに育てあげるなどの音楽教育にも情熱を注いだ。
 芥川の音楽は1960年代には躍動性から遠ざかり静謐で寡黙な音楽へと移行していった。当時は映画音楽や日本作曲家組合(後の日本作曲家協議会)委員就任や、日本現代音楽協会「現代の音楽展」の企画運営に携わったり、ラジオ・テレビ番組の司会、映画音楽の担当などに活躍。しかし1967年・69年には中期の代表作「オスティナータ・シンフォニカ」と「チェロとオーケストラのためのコンチェルト・オスティナート」が日本フィル(渡邉暁雄指揮)と東京交響楽団(秋山和慶指揮)で次々と初演され、オスティナートの音楽に回帰した。その後も自作を発表するかたわら、TV番組監修、映画音楽作曲や寄稿、オペラ上演課など多方面に活動。1981年には1000人もの音楽家が参加した「反核 日本の音楽家たち」設立の中心人物として活躍した。この活動はクラシック領域に止まらずジャズやポピュラーの領域にも拡大し一大ムーブメントとなり、学生マンドリンの世界にも大きな影響を及ぼした。1986年にはサントリーホール開館記念作「オルガンとオーケストラの為の響」が初演され、サントリー財団から更に委嘱を受け「古事記によるオラトリオ」を構想したが、88年病に倒れ病床で「日扇聖人奉讃歌〈いのち〉」に着手するも89年初頭肺ガンの為惜しまれつつ死去。
 本作は1953年、NHK交響楽団の常任指揮者であったクルト・ヴェスの依頼を受け作曲した弦楽五部合奏曲で、曲名は愛聴作であったポーランドのアレクサンドル・タンスマンの「トリプティーク」から引用したもので、「急-緩-急」の構成を同じくし曲調も似た雰囲気を醸しだしている。本作は芥川がソ連密航の際に持参して、モスクワで演奏、後年ソ連の国立出版局からも出版された。初演は1953年12月4日クルト・ヴェス指揮ニューヨークPO。なおタンスマンはポーランドの作曲家だがラヴェルやストラヴィンスキーと親交があり、伊福部が「日本狂詩曲」で受賞したチェレプニン賞の審査員でもある。本作は1947年に作曲された弦楽四重奏曲(後に破棄)から第2楽章をトリプティークの3楽章へ、第2楽章をトリプティークの第3楽章に改作転用している。
 トリプティークとは元々はルネッサンス期の教会の三連祭壇画を指しtri(- 3つの)+ptychē(折り重ねる)を意味する3つの部分に分けられた絵画の事である。多くは蝶番で折り畳む事が出来る板絵で中央の作品が大きく、それに蓋をするように左右の作品が折り畳める三面鏡のようになっている。この三枚の作品は関連性のあるもので、「フランダースの犬」でも有名なP.P.ルーベンスの「キリスト昇華」「キリスト磔刑」「キリスト降架」はその中でも著名なものである。
 第1楽章は全合奏のユニゾンでショスタコーヴィチやプロコフィエフの影響が顕著なオスティナート。冒頭5小節の印象的な主題をヴァイオリンソロや副主題、中間部を挟みながら性格を変えずに最終的には冒頭の主題を4オクターブに拡大して駆け抜ける。第2楽章は作者の娘の為に書かれた5/4拍子の「子守歌」。全パートに弱音器の指定があり、両端楽章に対して非常に静謐で禁欲的な響きに満ちている。途中楽器を手で叩く「Knock the body」の特殊奏法が用いられていたり、伴奏の和音をレガートとトレモロのユニゾンにしたり、パートを分けて上下交互に二声部を奏させるなど、細かい管弦楽法も特徴的である。第3楽章は作者曰く「御神楽から想を得た」という祭り囃子のような賑やかな楽章。密集した和音から次第に音域を拡げるつつ加速していく細かなテクニックが印象的。コル・レーニョも用いられ響きにアクセントをつけ、途中で短いアダージョを挟み、冒頭の音楽に戻る。最後はアダージョの主題を強奏し、冒頭主題のユニゾンで締める。
なお本編曲は早稲田大学出身の伊藤敏明氏によるもので、在学中に他大学の有志等で活動していたアンサンブル・プロメテの為に編曲したもので、原曲に至って忠実な編曲が施されており、原曲の特殊奏法に対するマンドリン演奏でのアドバイスなども付随している大変貴重なものである。
解説:横澤恒
参考文献:「弦楽の為の三楽章 」( 音楽之友社: 解説/ 長木誠司)、「伊福部昭の宇宙」( 音楽之友社/ 相良侑亮編)、新交響楽団第152 回/ 第204 回定期演奏会パンフレット、「芥川也寸志―その芸術と行動」( 東京新聞出版局)、「私の音楽談義」( ちくま文庫/ 芥川也寸志著)
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交響曲「マンドリン芸術」

交響曲「マンドリン芸術」
Arte Mandolinistica, Sinfonia in 4 tempi(1905)
ジュセッペ・マネンテ 作曲
Giuseppe Manente(1867.2.2 Morcone〜1941.5.17 Roma)

 作者はイタリアの作曲家、指揮者。ナポリのサン・ピエトロ・ア・マイエッラ音楽院、マドリード音楽院、サンタ・チェチーリア国立アカデミアで音楽教育を受けた後、軍楽隊長を歴任した。この経歴から、作品は主に吹奏楽のために書かれている。マンドリン合奏のためにも多くの作品を残しており、その中には本曲の他、1906年のIl Plettro誌の第1回作曲コンクールで銅牌を受賞した幻想曲「秋の夕暮れ」、1908年の第2回作曲コンクールで上位佳作を受賞した序曲「メリアの平原にて」などの重要な作品が含まれる。マネンテの作曲において演奏媒体は二義的なものであったようで、最初に吹奏楽で作曲され後にマンドリン合奏に編曲された序曲「小英雄」(Il Plettroの第4回作曲コンクールで第2位を受賞している)や、その反対にマンドリン合奏のために作曲されて吹奏楽に編曲された序曲「メリアの平原にて」が存在するなど、作曲者自身による作品の編曲が多く存在する。戦後、故中野二郎氏らによって多くの作品が吹奏楽からマンドリン合奏へ編曲されている。
 4楽章の交響曲「マンドリン芸術」は1905年告示のU.M.L.の作曲コンクールのA部門(マンドリン四重奏のための交響曲)で第2位を受賞した。このコンクールは1905年9月が締め切りで、その他の部門として三重奏や二重奏の曲のものもあった。本曲の題名はコンクールに関わったマンドリン専門誌Arte Mandolinisticaから取ったものと考えられる。本曲の楽譜はArte Mandolinistica誌から1906年に出版され、後にフランスのL’Estudiantina誌で再版された。本日用いる楽譜は、低音部を中野二郎氏が補筆した楽譜である。
 楽曲は下記の4つの楽章からなる。
I. Allegro deciso, ハ長調, 2/4
 自由なソナタ形式による。前半を第1主題の要素、後半を第2主題の要素とした序奏に始まる。この序奏は主調のハ長調で始まるがすぐに転調し、イ長調の第2主題が(第1主題よりも先に)提示される。その後、第1主題がハ長調で提示される。展開部と再現部を有することはソナタ形式の通りではあるが、展開部においては主題が原型を保って異なる調で現れるのに対し、むしろ再現部で主題が変形されて現れる。第1主題が有するソプラノの上昇順次進行が曲全体の主題となっている。
II. Adagio Cantabile, ト長調, 3/4
 自由な複合三部形式による緩徐楽章である。主題は第1楽章の第1主題と同じソプラノの上昇進行を特徴的に有している。主題が頻繁な転調を含む展開要素が多いものであるのに対して、中間部はト長調の部分が多く調的な主題と中間部の対比は小さい。
III. Tempo di Minuetto, ニ長調, 3/4
 ダ・カーポによる厳格な複合三部形式によるメヌエットであり、非常に古典的な書法で書かれている。中間部は下属調のト長調による。全曲を通じた主題が出てこないかわりに、第2楽章との関連がもたされている。
IV. Allegretto vivacissimo, ト長調, 3/8
 フーガと自由なソナタ形式の二重形式である。フーガは元来対位法を用いた楽曲の様式であるが、楽式としてはリトルネロ形式(主題がエピソードを挟んで繰り返され、主題の再現時の調が移り変わる楽式)による。このリトルネロのエピソードを第2主題とすることでソナタ形式とのダブルミーニングの楽式としている。テンポの上で中間部となるAndantinoを有するが、これも第2主題の展開の一部である。
 本曲は交響曲らしく、ソナタ形式、緩徐楽章、メヌエット、フーガに相当する4つの楽章でソナタ構造を形成している。開始楽章と終楽章の調が異なることは(同時代のマンドリン曲にはよく見られる)特徴的な点である。第3楽章を除く全ての楽章にソプラノの上昇進行が共通テーマとして現れ、全体を統一している。このような楽章間の強い関連性は同時代のマンドリン曲の中ではむしろ特異的なことで、マネンテの動機展開の巧みさとあいまって本曲の価値を高めている。
 第1楽章においては第1主題と第2主題の順序が交換されている。マネンテは本曲の作曲直前の作品として、独創的序曲「国境なし」を書いているが、そこでも同様に第2主題が先に提示される構成を用いていた。本曲ではこの楽式が発展されている。「国境なし」では単純に第2主題が先に提示されるために曲の開始が主調ではなかったが、本曲の第1楽章では第2主題の提示の前に主調で始まる序奏が設けられていることによって楽章の最初を主調にしている。このように2つの主題を入れ替えることに加えて、展開部と再現部の機能を一部入れ替える(提示部では主題の原型を保ち再現部に展開要素を含ませる)ことで、ソナタ形式であることを包みくらますような楽式にしている。同じ工夫は第4楽章にも共通して用いられている。ソナタ形式の楽式を隠して堅苦しさを無くす書法は、本作よりも以前のH. Lavitranoの小序曲「ローラ」などにも類例を見ることができる。

解説:清田和明
参考文献:
中野二郎著「いる・ぷれっとろ」http://vinaccia.jp/nj-collect/
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マンドリン讃歌「プレクトラム」

マンドリン讃歌「プレクトラム」
“Plectrum”, Inno Mandolinistico op.224(1906)
アメデオ・アマデイ 作曲
Amedeo Amade(i 1866.12.9 Loreto ~1935.6.16 Torino)

 作者はイタリアの作曲家、指揮者。三代続いた音楽家の家系で、最初は父ロベルトに音楽を学んだ。その後ボローニャのアカデミア・フィラルモニカでピアノ、オルガン、合唱指揮を学んだ。1889年以降は各地の軍楽長を歴任し、退役後はトリノで作曲家として活動した。作品は多岐に渡り約500曲を数えるが、マンドリン合奏のためにも90曲を超える作品を残している。舞曲調の小品を中心とした作風はイタリアマンドリン音楽初期の典型であるが、アマデイのそれは簡素にして最大限の演奏効果を上げるオーケストレーションにより、ひとつの完成系を見出したと言える。
 本曲は1906年のIl Plettroの第1回国際作曲コンクールの第1項「マンドリン讃歌(Inno Mandolinistico)」の部門に応募され、第1位の大金牌(Grande medaglia d’oro)を受賞した。応募規定は「平易な調性と単純な形式の行進曲風テンポを有する2つのマンドリン、マンドラ、ギターのための作品」であった。アマデイはこのとき、第2項の「ボレロ、前奏曲、間奏曲、セレナータ」の部門においても「イ調のミヌエット」で大銀牌を受賞しており、1908年告示(1909年に締め切り)の第2回国際作曲コンクールにおいてはカテゴリーA「序曲、組曲」の部門において「船乗りの組曲」が第1位の大金牌を受賞している。
 Il Plettroの出版案内によると、本曲はピアノソロと付随するマンドリン、2つのマンドリン、2つのマンドリンとマンドラや、マンドリンソロとギター、2つのマンドリンとギター、2つのマンドリンとマンドラとギター(原編成の四重奏)など様々な編成の楽譜が出版されたようである。原編成の楽譜は1906年の8月にIl Plettroに掲載され、後年1933年にもパート譜が掲載された。本日演奏に用いるのはIl Plettroの出版譜を元に、松本譲氏による低音補筆を加えたオザキ譜庫発売の楽譜である。本曲の作品番号は224と記載されているが、1907年に作者が主幹を務めていたVita Mandolinistica誌で発表された「セレナテラ」にも同じ作品番号224が与えられている(1926年に改訂、改題されて「マッティナータ(朝の歌)」としてIl Plettroに掲載されたときにも同一の番号が記載されている)。アマデイの他の楽譜でも複数の小品に同一の作品番号が与えられている例があることから、これらの曲は一括りのものとして作曲されたのかもしれない。
 標題の「プレクトラム」は撥弦楽器の演奏に用いるピックを意味する英単語である(イタリア語ではPlettro)。本曲は各地のコンクールで演奏され、特に1906年にコモで開催されたコンクールでは、作者の指揮により500人を超える演奏者で演奏されたという。
 曲はA-B-A’-C-A-Codaの小ロンド形式で、主題Aはト長調、第1エピソードBはイ長調(属調)、第2エピソードCはハ長調(下属調)であるが、第1エピソードは調号を変えずに書かれている(アマデイの他の楽曲でも見られる書法である)。主題はマンドリン族の和絃奏法を用いた華やかなもので、メロディアスなエピソードと対比がなされている。中間の再現A’では低音に8分音符の動きが加えられ一層力強く歌い上げられる。
解説:清田和明
参考文献:
Il Plettro, Anno I, No.1 (1906)( イルプレットロ創刊号) のコンクール告示
その他Il Plettro およびVita Mandolinistica 各号
中野二郎著「いる・ぷれっとろ」http://vinaccia.jp/nj-collect/
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1900年代初頭の作曲コンクールについて(清田和明)

 マンドリンオーケストラという演奏形態の歴史はそれほど古くない。近代のマンドリンの興隆は、19世紀にヴィナッチャがナポリ型マンドリンに改良を加えてスチール絃を用いたものとした楽器面での近代化に加えて、マルゲリータ王妃がマンドリンを愛好して活動を保護したことに始まるイタリアでの流行があってのものである。マンドリン族による合奏もこの流れに伴い徐々に完成したもので、初めはミラノ型マンドリンなども含む合奏であったのが、ナポリ型マンドリンとその低音楽器、およびギターを用いた合奏の形態に収斂していった。1900年ごろまでにはマンドリン2部、マンドラ、ギターという4部合奏の形態が確立されていた。マンドロンチェロやマンドローネといったより低音の楽器を充実させた編成が一般的になるにはさらに時間がかかったと考えられる。当初は4部合奏と四重奏の区別も曖昧であったが、合奏の規模は拡大していき、Orchestra a plettro(プレクトラムのオーケストラ)と呼ばれるようになっていった。
 合奏形態の発展に伴って、マンドリン合奏のための楽曲の必要性も高まった。マンドリン合奏のための楽曲は比較的単純な曲が多かったが、1900年代に入ると充実した内容の作品が作曲されるようになった。1902年のIl Mandolino誌における第6回作曲コンクールではC.A.Braccoの交響的小品「マンドリンの群れ」やH.Lavitranoの小序曲「ローラ」など、ロマン派風の自由に昇華した形ではあるがソナタ形式の作品が受賞曲に現れている。
 このような背景の中、より芸術性の高い作品を求める作曲コンクールが開催されていった。今回のプログラムで取り上げる作品はこの時代のコンクールの受賞作である。
 1905年ジェノヴァのCamillo Sivori音楽院の提唱によりリグリア教師協会(Unione Magistrale Ligure)が国際作曲コンクールの開催を決定した。7月にはジェノヴァでArte Mandolinistica誌が創刊され、その創刊号にはコンクールの開催告知が掲載されている。そのコンクールのA部門の応募規定はマンドリン四重奏のための交響曲であり、そこで交響曲「ジェノヴァへ捧ぐ」が第1位、交響曲「マンドリン芸術」が第2位を受賞した。
 一方、1906年3月にはミラノでIl Plettro誌が創刊され、その創刊号で国際作曲コンクールが告示された。このコンクールの第1項はマンドリン讃歌、第2項はボレロ、前奏曲、間奏曲、セレナータの部門で、ここでマンドリン讃歌「プレクトラム」やマンドリン讃歌「フローラ」などが入賞している。
 Il Plettroの作曲コンクールはイタリアのマンドリン音楽のために非常に大きい貢献をするもので、これ以降、第2回(1909)ではA.Amadeiの「船乗りの組曲」、第3回(1910)ではS.Falboの「田園組曲」、U.Bottacchiariの詩的幻想曲「誓い」やL.Mellana-Vogtの序曲「過去への尊敬」、第4回(1911)ではS.Falboの「序曲ニ短調」やA.Cappellettiの「劇的序曲」などの錚々たる曲を生み出すこととなる。
特に第3回および第4回は楽曲の芸術性の面でも編成の面でも完成度が高まり、イタリアマンドリン音楽作品の完成期を作ったと言える。第1回のコンクールはそれに比べると素朴な楽曲が並んでいるが、後年の重要なコンクールの原点という意味で記憶する価値のあるものである。
 Il Plettroの第1回コンクールに比べて、Sivori音楽院のコンクールの受賞作は編成こそ初期型の4部合奏であるものの、絶対音楽としての完成度が高く、この時期のマンドリンのための作品としては例外的な存在となっている。イタリアのマンドリン合奏のための曲でソナタ構造(複数楽章によるソナタ)を取るのはこの2曲の交響曲に後年のS.Falboの「田園組曲」を含めて3曲のみであり、希少性が高い。これらはいずれも第1楽章と終楽章の調が異なり、ハ長調およびト長調で構成されているという共通点があり、作曲年代からみて後に位置する「田園組曲」では先行するSivori音楽院の作曲コンクールの受賞作からの影響があると考えられる。
 今回取り上げる楽曲は、後年のドイツのマンドリン合奏の初期の作品にも大きい影響を与えたと考えられる。1923年ごろに作曲されたK.WölkiのSinfonie in einem satz in e-mol(l 単楽章の交響曲ホ短調)では、第1主題に「マンドリン芸術」の第1楽章第1主題のリズムモチーフ(これはさらにさかのぼると「マンドリンの群れ」でも用いられたものである)が、第2主題に「プレクトラム」のモチーフが用いられている。さらに第2主題が第1主題よりも先に提示されるソナタ形式は「マンドリン芸術」の第1楽章に見られるマネンテの書法に通じるものであり、これらの作品からの影響が強く見られている。このように同時代の作品を合わせて見ることにより後年への影響が判然とするのは興味深い。
 「プレクトラム」と「フローラ」はいずれもト長調の小ロンド形式で、中間の主題再現では低音に8分音符の動きが足されるなどの共通点がある。「ジェノヴァへ捧ぐ」と「マンドリン芸術」では、前者がバスの下降順次進行を楽曲全体の主題として有しているのに対して後者はソプラノの上昇順次進行を楽曲全体の主題として有している。また、前者がト長調に始まりハ長調で終わるのに対して後者はハ長調に始まりト長調に終わる。このように、「ジェノヴァへ捧ぐ」と「マンドリン芸術」はあたかも鏡に映したように対称的な作品となっている。今回の演奏会ではこれらのコンクールの受賞作を合わせて演奏するということで、同時受賞作間の対比もお楽しみいただきたい。
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選曲について(横澤恒)

 今年のプログラムは、これまでのコンコルディアのイメージからすると大分路線をはずれた?ものとご来場の皆様お感じになっているかと思います。まずはイタリア作品を全てオリジナルで固めている事。そして邦人作品を挟むようにそれぞれ意味のあるイタリア作曲家の作品を配置している事。またその結果としてプレクトラムオーケストラのみの編成である事。というわけで今年は純プレクトラム音楽の繊細な響きをお楽しみいただきたいと思います。
 さて肝心の内容ですが、まずイタリアオリジナル作品は当時の極めて近しい時期に催された二つのコンクールに応募された作品という構成になっています。当時の聴衆が聴いたであろう作品ばかりをこの一夜に聴いていただけるという、「時間と空間を超えた」企画という事になります。これらの作品は大変著名な作品ばかりですが、一つ殆ど演奏機会のない可憐な小品を織り込んでみました。
 MilanoとGenovaは地理的には北イタリアに位置し、トレニタリア(国鉄を引き継いだ民営鉄道)のフレッチャロッサ(Frecciarossa)という赤いカッコイイ高速列車ならわずか1時間半程度の距離です。Genovaはリグーリア州の州都かつジェノヴァ県の県都の港町。
Palazzo Realeという王宮が有名です。ナポレオンの侵攻からリソルジメントによるイタリア統一までにジェノヴァ共和国からリグーリア共和国になり、フランスに併合されたりと歴史的に多難な地域でした。Genovaの気質としてはStundaioと呼ばれ気位が高い、独立心旺盛で天才肌の人が多いのだそうです。一方Milanoはというとロンバルディア州の州都かつミラノ県の県都でリソルジメントの中心地であった都市で、ご存じのように服飾繊維産業の盛んな商業的中心地です。人々は勤勉でまじめ、物事へのこだわりが強くクールというのが抱かれている印象のようです。
 Genovaのコンクールは1905年創刊されたArte Mandolinistica誌に掲載されましたが、主幹のAngelo Cigliaは作曲家で音楽理論の著書もあるような人でした。パガニーニ唯一の弟子であったC.Sivoriの名を冠した音楽院の院長でもあり、院内にU.M.L(リグリア教師協会)という組織を立ち上げてコンクールを開催する等おそらくはある程度の政治力を持ち、マンドリンの擁護啓蒙に大変力を注いだ人だったとの事で、自ら行進曲「U.M.L」も作曲しています。(もっとも、CigliaとU.M.L、Arte誌の関係についてはまだ不明な点が多いと考えられます。)一方、Milanoのコンクールは同じように1906年に創刊されたIl Plettro誌に掲載されました(奇しくもこの年にはミラノ万博が開催されています)。主幹のAlessandro Vizzariも作曲家でしたが、これまた並々ならぬ情熱を持って多くの作品を世に送り出した人で一時期はボローニヤで発刊されていたVita Mandolinistica誌の主幹も努め、Il Plettro誌は38年もの長きに渡り刊行されました。2014年刊のSimona Boniの著書「ロメロ・フェラーリと20世紀前半のイタリアギター音楽」には芸術楽器としてのギターやプレクトラム音楽の権威を高める為に多くの音楽機関に訴える活動を続けた事が掲載されており、斯界の発展に大きな貢献をした事が確認できます。作曲家の名前は作品とともに記憶にも記録にも残りますが、こうした作品の出版や教育、啓蒙につくした功労者について中野二郎氏も「いる・ぷれっとろ研究」の中で指摘されたように、目を向けていく事が大切だと感じられます。
ちなみにIl Plettro1927年5月号にはcomoで行われた合奏コンクールの事が載っており、イタリアの名だたる合奏団が参加し、最後に全員(800人!)でマンドリン讃歌フローラを合奏したと書かれています。その演奏は今日使用している1926版だったかもしれませんね。
当時斯界に関する音楽誌が立て続けに創刊して作品を募集している事は現在では考えられない程多くの愛好者や読者がいたことを示していますし、それを実行に移した熱意あふれる音楽家がいた事をも我々に教えてくれています。同じように1892年にトリノでIl Mandolino誌が、1897年ボローニアでIl Concert誌が、1901年にも同じくボローニヤでVita Mandolinistica誌がと各都市毎のように音楽誌が刊行されている事に驚きを禁じ得ませんし、それも月間ではなく隔週刊だったりもします(これらが全て北イタリアである事にも注目です)。これ以外にもイタリア、フランス、オランダ、スイスなどでプレクトラムの音楽誌が発行されていた事を考えるとその文化圏はそれなりに広域であった事がわかります。
こんな当時のイタリアの光景を思い描きながら聴いていただけると楽しいかなと思います。vizzai.jpg
Allesandro Vizzari



 ボッタキアリの交響曲「ジェノヴァ捧ぐ」は名前のみ知られ管弦楽作品ではと噂されていたもので、石村隆行氏がその執念で捜し当てたと言っても過言ではありません。氏が渡伊中の1987年にボッタキアリ生誕100年を記念した冊子(1982)を入手、本作がマンドリンオーケストラの為のオリジナル作品である事が判明、まず単独で出版されたscherzo楽章をSMDで初演、全曲版とはちょっとだけ異なっています。その後石村氏はジェノヴァ近郊のオーケストラが所有する自筆スコア(但し1楽章が欠落)を入手し1991年に2〜4楽章をSMDで演奏。更にG.Verdi音楽院で初演団体が所有していたスコアを発見し、1994年に遂に全曲をSMDで演奏とまさに飽くなき探求の結果、今日私たちが演奏する事が出来る訳です。その経過をその時々人づてあるいは演奏会資料等で見聞きしてきた筆者としても今回演奏する事がかなう事はまさに感慨無量であります(ちなみに87年と94年のジァノヴァを振ったお二人は現在東京でビアンカ・フィオーリ楽団の指揮をとっておられます)。以上、イタリアオリジナル作品については石村隆行先生から沢山のご教示をいただいている事に深く感謝を述べさせていただきます。
 また邦人作品も欠かす訳にいきませんので、今年はあえてイタリアの古典的あるいはロマンティックな作品と対局をなすシリアスかつハードな作品を選びました。二人の間には接点はないかと思われがちですが、二人ともアマチュア音楽の指導に熱心である事、「反核 日本の音楽家」の運動に一人は旗振り役として、一人はその協力者として名を刻んでいる事、芥川氏はオスティナートという、あるパターンの音形やリズムを執拗に繰り返す手法に特徴があり特にソ連時代の音楽作品に影響を受けていますが、歸山氏も同じようにオスティナートを多用しますし、ソ連の民族楽器作品の編曲や訪問楽旅を行ったりと、音楽的指向やソ連と縁の深いところ等共通項が見つかります。またお二方とも中国音楽を取り上げ、現地で自作を演奏している点も通じています。
 それともう一つ、とても興味深い点を。ジェノヴァに捧ぐは作者27歳、トリプティークは作者28歳、フローラは作者29歳、マンドリン芸術は作者30歳、劫は作者31歳、偉大な作品が若きマエストロの天才的な音楽性によるものだという点も付け加えておきます。 
 以上、例年とはちょっと違う極上のフルコース。盛夏を乗り切るスタミナ満点のソワレ・ムジカーレをお楽しみいただければ幸いです。