2011年06月24日

第39回定期演奏会によせて

本年の演奏会は図らずも特別な意味を持つ演奏会となりました。
震災後10日ほど経った頃のニュースの中に、今必要なものとして、沢山のものが並べられた中に、静かな時間、生の音楽、というものが取り上げられていたのを見ました。
 音楽が持つ力とはどんなものなのでしょうか?

 明るい雰囲気を醸しだす音楽、勇壮に士気を鼓舞する音楽、優しく慰める音楽、賑やかに場を盛り上げる音楽、愛する人を想い奏でる音楽、哀しい気持ちを分け合う音楽。様々な場面で、音楽は人の感情に訴える音の波動であり、波動が共鳴して感情を揺さぶるものであります。しかし、こういう未曾有の事態の中で過ごす毎日は、なかなかそうした波動をひとつにして、人の心に響かせる事の難しさを知らしめると共に、音楽を志す私たちに一体何が出来るだろうかと問い続ける日々でした。
 欧米ではウィーンでもベルリンでもドレスデンでも、亡くなられた方への為の追悼演奏会や、被災者の皆さんに対する義援演奏会などが行われてきました。キリスト教社会にあってはこうした亡くなった方々を皆で追悼するという事が、古来音楽と共に自然な感情として行われる事を、改めて感じましたが、日本人にとってはこうした感情は、共感は出来てもなかなか自分の事としては思い描けないものではないかとも感じたりしました。

 そして再開した練習で、いつも何気なく会って笑っている仲間に再開出来た事が、どれほど幸せな事なのかと大変感激をいたしました。よく言われるように、「当たり前でいる事の幸せ」がここにもあったんだとしみじみ感じ、その仲間たちが一層いとおしく感じました。
こうした中で行われる本年の演奏会では、冒頭に著名な指揮者であり、作曲家でもある曽我大介先生が、この度の震災で亡くなられた方々を追悼して書き下ろした「"Kibou" requiem for victims of earthquake in Japan」を演奏いたします。岩手の南部牛追唄に始まり、天変地異を経験した人々が災厄から再び立ち上がろうとする姿を経て、再び南部牛追唄が鐘の音とともに奏され愛する大地で心ならずも眠りについた同胞の魂の救済を呼びかけるという作品です。
 作者の曽我大介先生は、この曲について「震災から1週間ほど経った頃、日本で数々のコンサートが、会場の損傷や節電による中止または自粛になり、このような未曾有の災害を前に音楽家としてどのような事ができるのか、考えました。そこで、世界中に住む音楽家の友人たちに手伝ってもらい、震災支援キャンペーンの軸となる音楽を作ろうと思いたったのです。2日半で作曲して、ネットで呼びかけを始めました。この"Kibou"は、2管編成のオーケストラで演奏される5分程度の短い曲です。楽譜はサイトからダウンロードできるようにしました。フルスコア(総譜)から各楽器のパート譜まで、すべてです。印刷も簡単にできます。」と語っておられます。(DIGITAL DIMEのホームページより抜粋)
そしてそれに呼応するかのように、偶然にも生きる事の意味を問いかける作品が本年のオオトリを飾る事になりました。

 歸山榮治作曲「マンドリン合奏の為の三楽章第四番」。全編ソロヴァイオリンを迎えるマンドリン合奏作品では異色の編成であり、40分を超える長大な作品です。1987年に作曲されてからまだ3回しか演奏されていません。(東京では、前回私たちが演奏してから19年ぶりの演奏です)
 この作品の中には「人生」「喜怒哀楽」「死」「嘆き」「憂い」「相剋」そうしたあらゆる人間の感情が凝縮されています。
 生きている事は「生かされている事」と言われます。奇しくもこの記憶すべき年にこの大変意味の大きな作品を演奏する事になったのもひとつの巡り合わせかと思います。
 初演のメンバー曰く、「レクイエムを書こうとして書けなかった音楽」と初演時に、先生より話があったと聴きます。特に第三楽章については、「死に切れないレクイエム」とも言われています。
レクイエムは、その言葉通り死者の「安息を」願うラテン語の典礼文であり、ロマン派以前の音楽にあっては、多くの場合悲しみや嘆きの典礼文を通して、追悼する気持ちが昇華した感情の音楽です。近代においては、B.ブリテンの「戦争レクイエム」、P.ヒンデミットの「我が愛する者たちの為のレクイエム」、D.カバレフスキーの「レクイエム」のように戦死者を悼み、戦争や体制そのものを、ある詩人の言葉を借りてある時は静かに、ある時は激しく断罪するなかで没故者を深く哀悼した作品もあります。キリスト教国ではないわが国でも、三善晃の「レクイエム」では死者の肉声を、死者の群れに身を投じ、一緒になって叫び、嘆いているような作品が生まれています。
 このようにレクイエムは近年では作者の思想や人生観がそのまま音になる事がしばしばであり、帰山先生の作品においても、そこにあるのは慟哭であり、悪ふざけであり、祈りであり、切ったら血の出る音楽ですが、レクイエムになりえなかったという点で、死者の為のものではなく、生ける者の為の音楽であると解釈出来ます。死にたくても死に切れなかった、生きていかなければならない者たち、生きていく事を諦めかけてもう一度立ち上がろうとする者たちの音楽といってもいいかもしれません。ソロヴァイオリンが歌う息の長い旋律は、願いだったり、嘆きだったり、笑いだったりします。それに時に寄り添い、時に対立し、共に生きていくオーケストラ。つらくて悲しくて、いやでいやで仕方ないけど、生きていくしかない事を嘲るような諧謔的な音楽もまた、避ける事の出来ない真実として、そのままなんら飾る事なく現れます。そして人生の幕が降りようとするその時に、初めて訪れる生の肯定。これこそが、生きることの本質的な意味であり、帰山作品において問われてきた「生きることの意味」について、初めて語られたひとつの帰結なのではないかと私は考えました。
 この演奏がどんな意味をもてるのか、誰かの生きる力になろうなんていう僣越な事を言うつもりはありません。
 そこに描かれたものを、修練してきた技術を背景に、一人一人が自分のおかれた環境と、震災を目の当たりにして見つめなおした自身の生き方や感情というエッセンスをのせて奏でる事が出来た時に、この音楽はこれまでの演奏とは違う意味を持つ、生きとし生けるものの為の音楽として孤高の姿を浮かび上がらせるであろう事を確信しております。
 様々な気持ちを込めて演奏いたします。何が描けるのかはわかりません。誰かの力になれるかもわかりません。しかし、そこにある音楽をひたむきに「真実」としてお届けする事をお約束いたします。
posted by コンコルディア at 22:18| Comment(0) | コンコルからのお知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする